秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻にある払田柵跡(ほったのさくあと)は、歴史上でも記録が残されておらず、正式な名称すらも未だに解明されていない古代城柵遺跡です。謎が多い幻の柵とも呼ばれた払田柵跡は歴史上でどのような役目を果たしていたのか、この謎に迫ってみました。
記事内の目次
払田柵跡(ほったのさくあと)とは?
秋田県大仙市払田・仙北郡美郷町本堂城廻にある払田柵跡(ほったのさくあと)は、一見すると公園のような場所に木製の柵が建てられているようにしか見えないので、何があるのかわかりにくいかもしれませんが、国の史跡にも指定された幻の古代城柵遺跡が残されている観光名所になっています。
1902年頃に耕地整理していた際に水田から200本余の柵木が発見されていましたが、当初は燃料にされたり下駄に加工して販売されたりと、遺跡の発掘物である事にすら気づいていなかったそうです。
ところが、明治後期から昭和初期に活躍した小説家である後藤 宙外が遺跡の存在に注目し、後の1930年に文部省に嘱託された上田 三平が発掘調査を開始したところ、払田柵跡が存在している事が明らかになり、翌年の1931年3月30日に秋田県内初となる国の史跡に指定されました。
1974年には「秋田県払田柵跡調査事務所」を立ち上げ、壊滅の危機に立たされていた払田柵跡のさらなる調査や柵跡の保護を行っていましたが、後の調査で「嘉祥二年正月十日」と記された木簡が発見されて、平安時代初期に築かれた城柵官衙遺跡であった事が明らかになっています。
征夷大将軍 坂上田村麻呂による蝦夷討伐の際に陸奥国の胆沢城(現・岩手県奥州市)と志波城(現・岩手県盛岡市)と同時期に作られた城柵であるとされていますが、正式な名称も不明なままで、未だに様々な議論が行われているようです。
周囲を大きく取り囲む3.6kmの材木塀
払田柵跡として残されているのは一部分のみで、実際には外周3.6kmの楕円形状に柵が建てられていて、その内部の総面積は87万8千㎡にも達しています。その広さは奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれていた107万平方メートルの多賀城跡に匹敵するほどの広大な敷地面積を有しております。
主に復元されているのは外柵南門周辺ですが、東西南北の四方に八脚門が置かれていていたそうで、南門の高さは9.7mほど、周囲の柵の高さは地上高3.6mほどであったことが判明しており、日本三大美林の一つである秋田杉の角材を使用して作られているそうです。
外郭南門まで延びる南大路
外柵南門からは北に向かって南大路が真直ぐ延びています。途中に復元した木橋が設置されていますが、昔はここに川が流れていた事も判明しており、当時のように川跡も復元してその上に橋が架けられています。 この先に真直ぐ進むと、もう一つの門である外郭南門に通じます。
外郭南門と石塁跡
もう一つの門である外郭南門は木柵ではなく両脇に石垣が積まれていて、この先には払田柵の中心に位置する最も重要な施設が建てられていました。 本来であれば外柵南門と同じように何らかの施設がここに建てられていたのだと思われますが、現在は柱のみが復元されているようです。
軍事と行政を司る政庁跡
外郭南門から階段を昇ると復元された政庁跡があり、当時はここで行政や軍事的な役目を果たしていたのではないかとされています。この政庁は過去に4回立て直しをしていた事も判明しておりますが、具体的にはまだまだわかっていない事が多く、これが理由で幻の柵とも呼ばれています。
また、政庁から西側丘陵では鉄や銅の生産・加工も行われていた事もわかってきているそうです。
もののけ姫のたたら場とは直接関係ないかもしれませんが、似たようなものなのかな?と思わせるような雰囲気もありました。
観光名所としては物足りなく感じてしまうかもしれませんが、払田柵を含めて東北には平安時代初期に似たような役割を果たしていた史跡が残されているので、繋がりを調べてみるのも面白いかもしれません。
是非、秋田観光の際は近くの旧池田氏庭園と共に立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
払田柵 所在地や交通アクセス情報
住所 | 東北地方/〒014-0802 秋田県大仙市払田 |
時間 | 年中無休 24時間 払田柵総合案内所 9時~16時 |
駐車場 | 無料 25台 |
交通アクセス | JR大曲駅より千屋線川口行き 「埋蔵文化センター」下車 秋田自動車道 大曲ICから車で16分 |
撮影 | 撮影可 三脚や一脚等の撮影補助器具の使用可 |
マップコード | 138 771 424*32 |
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