秋田県大仙市払田と仙北郡美郷町本堂城廻にまたがる払田柵跡(ほったのさくあと)は、平安時代初期に築かれた古代城柵遺跡です。歴史書に明確な記録が残されておらず、当時の正式名称さえ解明されていない謎の多い史跡ですが、発掘調査によって軍事や行政を担う重要な拠点であったと考えられています。今回は「幻の柵」とも呼ばれる払田柵跡の歴史をはじめ、復元された外柵南門や政庁跡などの見どころを巡りながら、約1200年前にこの場所が果たしていた役割に迫ってみました。
払田柵跡(ほったのさくあと)とは?
秋田県大仙市払田と仙北郡美郷町本堂城廻に位置する払田柵跡は、1931年(昭和6年)3月30日に秋田県内で初めて国の史跡に指定された古代城柵遺跡です。現在は広々とした芝生の中に木製の門や材木塀が復元されており、一見すると歴史公園のような景観が広がっていますが、その地下には平安時代初期の歴史を解き明かす貴重な遺構が眠っています。
払田柵跡が発見されるきっかけとなったのは、1902年から1903年頃に行われた水田の耕地整理でした。当時の千屋村(現在の美郷町)で約200本の柵木が掘り出されましたが、古代の遺跡から出土したものとは認識されず、一部は燃料や下駄の材料などに利用されていたそうです。
その後、明治後期から昭和初期にかけて小説家や郷土史研究家として活躍した後藤宙外が遺跡の存在に注目し、古代城柵の可能性を指摘しました。1930年には文部省の上田三平による本格的な発掘調査が行われ、外柵の門や材木塀などが確認されたことで、広大な古代城柵遺跡の存在が明らかになりました。
1974年には秋田県払田柵跡調査事務所が設置され、継続的な発掘調査と史跡の保存が進められるようになります。その調査では「嘉祥二年正月十日」と記された849年の紀年木簡が発見されたほか、柵木の年輪年代測定によって西暦800年から801年頃に伐採されたスギ材が使用されていたことも判明し、払田柵が9世紀初頭の平安時代に造営された施設であることが裏付けられました。
払田柵が築かれたのは、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂が東北地方で活動し、陸奥国に胆沢城(現在の岩手県奥州市)や志波城(現在の岩手県盛岡市)が築かれた時代とほぼ重なります。当時の律令国家が東北地方の支配を進める中で、政治や軍事、地域の統治に関わる役割を果たしていたと考えられています。
しかし、多賀城や秋田城などとは異なり、払田柵については当時の名称を特定できる歴史資料が見つかっていません。「払田柵」という名称も現在の地名と遺跡の特徴から付けられたものであり、これほど大規模な施設でありながら、歴史書に明確な記録が残されていないことが最大の謎となっています。
周囲を大きく取り囲む3.6kmの材木塀
現在の払田柵跡で復元されている施設は遺跡全体の一部分にすぎず、創建当時は東西約1370m、南北約780mの範囲を総延長約3.6kmの材木塀で取り囲んでいました。外柵の形状はおおむね楕円形で、囲まれた敷地の総面積は約87万8000㎡にも達します。その規模は、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国府や鎮守府が置かれていた宮城県多賀城市の多賀城跡に匹敵するほどで、東北地方の古代城柵の中でも最大級の広さを誇っています。
払田柵跡の見どころの一つが、当時の姿を再現した外柵南門と、その両側に延びる材木塀です。外柵には東西南北の四方に八脚門と呼ばれる門が設けられており、復元された外柵南門は高さ約9.7mにも及ぶ堂々とした木造建築となっています。
周囲を取り囲んでいた材木塀は、地上から約3.6mの高さに角材を隙間なく並べた構造で、発掘調査では地中に約1m埋め込まれた柵木も確認されています。創建当時の材木塀にはスギ材が使用されており、現在の秋田県が全国有数の杉の産地として知られていることを考えると、豊かな森林資源を利用した大規模な造営事業であったことがうかがえます。
なお、復元された外柵南門には青森ヒバが使用されており、当時の材木塀に使われたスギ材とは区別されています。
これほど巨大な木造施設を約1200年前の技術で建設したことを想像すると、当時の律令国家が払田柵の造営にどれほどの労力を費やしていたのか、その壮大な規模に驚かされます。
外郭南門まで延びる南大路
復元された外柵南門をくぐると、北側に向かって南大路と呼ばれる道路が延びています。この道は外柵南門と外郭南門を結ぶ主要な通路で、払田柵の中心施設へと続く重要な役割を果たしていたと考えられています。
途中には木製の橋が復元されていますが、発掘調査によって、この場所には当時、東西方向に流れる川が存在していたことが判明しました。河川跡からは橋脚も発見されており、古代の道路と川が交差する場所に橋が架けられていたことが裏付けられています。
現在は川の流れを再現した河川跡と木橋が整備され、当時の地形をイメージしながら散策できるようになっています。芝生の中に延びる南大路と木造の復元施設が織りなす美しい景観は、払田柵跡ならではの見どころです。
南大路をさらに北へ進むと、丘陵の手前に設けられたもう一つの門、外郭南門へと到着します。
外郭南門と石塁跡
外郭南門は、払田柵の中心となる長森丘陵を囲んでいた外郭の南側に位置する門で、政庁へと通じる正面玄関にあたります。外側の外柵が主に木製の柵で構成されていたのに対し、外郭には材木塀や土を突き固めた築地塀などが用いられ、南門の両側には石を積み上げた石塁が築かれていました。
発掘調査によって、外郭南門の両側に石塁が存在していたことや、その上には櫓状の建物が設けられていたことも判明しています。こうした石塁は東北地方の古代城柵の中でも珍しい遺構であり、払田柵が持っていた重要性を物語る特徴の一つとなっています。
現在の外郭南門は、外柵南門のような建物全体の復元ではなく、門柱を立てて当時の位置や規模を示す形で整備されています。両脇には石塁も復元されていますが、創建当時はさらに高い構造物であったと考えられ、門と石塁が一体となった壮観な姿を想像することができます。
この外郭南門を越えた先には、払田柵の政治的な中心施設であった政庁跡が残されています。
軍事と行政を司る政庁跡
外郭南門から階段を上って長森丘陵の中央部へ進むと、払田柵の中枢施設であった政庁跡に到着します。政庁は行政上の重要な儀式や政務を行う施設であり、発掘調査では正殿や脇殿などの建物跡が確認されています。現在は建物の配置を示す形で遺構が整備されており、当時の政庁がどのような構造であったのかを知ることができます。
政庁は創建から終末まで同じ場所に置かれていましたが、途中で4回の建て替えが行われ、合計5つの時期にわたって建物の配置や規模が変化していたことも判明しています。払田柵は9世紀初頭に築かれ、10世紀後半頃まで使用されていたと考えられているため、約200年近くにわたって地域の行政拠点として機能していた可能性があります。
また、政庁の西側に広がる長森西方地区では、鉄製品の製作や修理を行う鍛冶工房跡が数多く発見されており、銅の鋳造に関わる施設が存在していた可能性も指摘されています。鉄や銅の加工だけでなく、漆を扱う作業場なども確認されていることから、払田柵は政治や軍事を担う施設であると同時に、さまざまな職人が働く生産活動の拠点でもあったようです。
こうした金属加工の歴史を知ると、個人的には映画「もののけ姫」に登場するタタラ場を思い浮かべてしまいます。もちろん、映画に描かれた製鉄施設と払田柵の鍛冶工房が直接関係しているわけではありませんが、古代の人々が道具を作り、さまざまな仕事に従事していた様子を想像すると興味深いものがあります。
払田柵跡は、華やかな建造物が数多く残る観光名所とは異なり、復元された門や建物跡から当時の歴史を想像しながら楽しむ史跡です。しかし、歴史書に正式な名称すら残されていないにもかかわらず、これほど大規模な施設が存在していたという事実は、古代東北地方の歴史を考える上で大変興味深いものです。
東北地方には、宮城県の多賀城跡や岩手県の胆沢城跡、志波城跡など、律令国家による東北支配の歴史を伝える古代城柵遺跡が各地に残されています。それぞれの歴史や役割を調べてみると、払田柵がどのような位置付けにあったのか、また違った角度から楽しめるかもしれません。
秋田県大仙市の歴史観光を楽しむ際には、復元された外柵南門や政庁跡を散策できる払田柵跡とともに、近くにある旧池田氏庭園にも立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
払田柵 所在地や交通アクセス情報
| 住所 | 東北地方/〒014-0802 秋田県大仙市払田 |
| 時間 | 史跡公園:年中無休・常時公開 払田柵総合案内所:9時~16時(公開期間・休館日あり) |
| 駐車場 | 無料 25台 |
| 交通アクセス | JR大曲駅より千屋線川口行き「埋蔵文化財センター」下車 秋田自動車道 大曲ICから車で約16分 |
| 撮影 | 撮影可 三脚や一脚等の撮影補助器具の使用可 |
| マップコード | 138 771 424*32 |













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